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【中小企業施策活用インタビュー第2回】 マツダ株式会社

2013年02月16日

 

サポインは国に対する技術の「提案」。他企業との連携が可能性を広げる

~ レアメタル技術で「サポイン」に採択されたマツダ ~

 

 
 マツダ株式会社は、昭和43年の創業から冷間圧造一筋。現在、多品種小ロットの難しい要求にも応え、ネジの枠を超えた提案をしていこうとしている。中小企業が連携して新しい価値を創造する会社「大阪ケイオス」にも参画。インターネットで思いを語る動画を配信したり、製造業を元気にしようと第二回全日本製造業コマ大戦の運営にも加わり、自らも近畿予選で優勝するなど、アクティブに幅広く活動している。
 同社は平成24年度のサポインに挑戦して採択され、今まさに研究開発を進めている最中。代表取締役の松田英成氏を大阪市内の工場に訪ね、サポインにチャレンジした背景、申請時のポイントや苦労話、チャレンジするメリットなどを語っていただいた。
 
 
インタビューサマリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  ・ 余談:父のこと、私のこと                    

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マツダ株式会社 代表取締役
田英成様
 
  
日本は使うだけ。踊らされている
 
―― 平成24年度のサポインに採択されたのはどのような技術ですか?
松田 金型に使っているタングステンをリユースしようという技術です。金型が割れたり欠けたりすると、捨ててしまいますが、溶射という技術で補修して、もう一度使う手法と材料の研究開発です。
 
―― このような技術の研究開発をしようと思ったのはなぜですか?
松田 今は中国からタングステンを仕入れて、終わったら捨てて、スクラップになって中国に帰ってしまいます。中国の方がスクラップを高く買いますから。日本は使うだけで踊らされているようなもの。ちょっと政治的に関係が悪くなると、仕入値を上げられるし、入ってこなければ製造もできないので言われるままです。
実際、自分の会社で金型代がとてもかかっていて、経営課題といったら金型代を抑えることなんですよ。金型をいかに長寿命化させるか、あるいは安く作るか試行錯誤していて、日ごろの経営活動みたいなものなんです。
 
―― なぜサポインに挑戦しようと思ったのでしょう。
松田 このアイディアを実現するには、装置をつくらないと無理。でも装置を作るのは専門じゃないし、どこかに支援してもらわないと苦しい。研究チームでは補助金がなくても進めようという話はしていたのですが、「ダメもと」で出してみたら、通ったといわけです。
 
 
最初のステップ、チーム構成は重要
 
―― 挑戦するにあたって、最初に何をしましたか?
松田 実は23年度にも、自社で挑戦しているんです。自分で書類を書いて、サポインに出してみたら落ちました。そこでサポインに採択されたことのある連携会社(大阪ケイオス)の社長に相談しました。ある程度「仕組み」を作れば、テーマしだいでは通るかもしれないと、まずコーディネーターを紹介してくれました。そのコーディネーターに何をしたいのかを話したところ、私のアイディアに乗ってくれそうな企業を紹介してくれたので、その企業に相談してチームを作りました。
チームのメンバーは弊社ともう1社中小企業、事業管理機関、大学です。あとは、アドバイザーとしてユーザーに相当する企業にも入ってもらいました。研究開発が成功して、技術が確立すれば利益を得られるメンバー構成になっています。
 
―― サポインで採択されるために、チームはどのような意味があるのでしょうか。
松田 そもそもサポインは、国からの研究開発の「委託」なので、委託先として大丈夫かという意味で、審査の時にはチーム編成も見られると聞きました。
「事業管理機関」となる事業者は、研究開発計画の運営管理、共同体構成員相互の調整、財産管理などを行う役割です。国との委託契約は事業管理機関が結びます。実際に研究開発を行う私たち「研究実施機関」となる事業者は、事業管理機関からの再委託という形をとります。
事業管理機関と研究実施機関を兼ねることも可能なので、1社だけで申請することもできますが、そもそも中小は少人数で忙しいのに、普段の仕事もしながら本当に研究できるのか、その根拠が示せないと通りません。また年度末に監査が入ってOKが出るまでは、すべての費用を立て替えることになる。その間お金を回せるだけの資金力があるのかということも見られます。
 大学はメンバーとして必須ではありませんが、ある程度サポインについての知識もありますし、原理などの技術的な裏づけをしてくれるので、組んだほうがいいでしょう。専門家がついていれば大きくはずれることはないということにもなります。
 アドバイザーも必須ではありませんが、その技術を使ってくれる人、われわれならユーザーです。ユーザーもチームに入っていれば、研究者の思い込みだけではなくて、市場のニーズも見ているということになります。
 
―― そもそも1社では難しいということでしょうか。
松田 会社の規模によるでしょうね。研究部門があるような規模の会社だったらたぶん問題ないし、すでにやっているでしょう。でもわれわれのように10人程度の規模で挑戦しようと思ったら、チームを組まないと難しいでしょうね。
 
 
中小企業基盤整備機構は活用するべき
 
―― 審査はどのように行われるのでしょうか。
松田 点数評価でABCDEFの6段階です。項目ごとに評価がつきますが、Cが一つでもあったらまず通りません。前に一人で申請したときは、一つCがありました。なぜ落ちたのか聞いたら、審査員から説明があいまいという意見がでたと教えてくれました。
 
―― 今回の申請にあたっては専門家のアドバイスを受けましたか?
松田 一番お世話になったのは「中小企業基盤整備機構(中小機構)」です。チームを作ってから中小機構に行って、何をしたいのか具体的に説明すると、担当する相談員を決めてくれて、その人がずっと指導してくれます。書いた書類を持って行っては、分かりにくいとか数値で示したほうがいいとか意見を聞いて、修正してまた翌月にチェックしてもらってと、足しげく通いました。しかも無料なんですよ。中小機構に相談したら絶対通るというわけではありませんが、指導は絶対受けたほうがいいと思います。
 
―― 申請までにどれくらいの時間をかけましたか?
松田 1年がかりでやりました。自分で申請して落ちたところがスタートで、じっくり資料を作りこんでいきました。
 チームを作って、テーマを決めて、申請書をチェックしてくれる人もできて、その「仕組み」ができたら、やっと最初の土俵に乗るかなという感じです。
 
 
国の方針に沿って、根拠も交えて分かりやすく
 
―― テーマを選ぶ際のポイントはありますか。
松田 国が指針を出していて、どういう重点分野があって、どういうことが望まれるのか示しています。その指針に沿っていないと、国が目指したいことと違うし時流にも乗っていないことになるので、まず話になりません。今回はレアメタルの分野で、タングステンが少量で済むというテーマだったので通ったのかもしれません。
 サポインの申請書類は「提案書」なんです。本当は国が動いて研究しなきゃいけないところを、代わりに中小企業に「委託」して研究してもらうということです。私たちが「こういう技術を研究しますよ」と提案して、それが国の方針に合っていればお金を出してくれる。中小企業もそれをチャンスに経営の基盤を高度化してくださいと。でも委託だから、ちゃんと研究していなければお金も払ってくれない。
 だから提案書は、国の思いに沿ったストーリーで書かなければ通らないでしょう。
 
―― 書類を作成するにあたって留意することは?
松田 プレゼンと一緒ですよ。誰に何を伝えるかということです。サポインの場合は審査員に伝えるわけですよね。その分野の専門家に良い技術だと思ってもらわなければいけない。でも中には財務関係の人とか、ぜんぜん専門外の審査員もいるので、その人が読んでも理解できるくらいに分かりやすく書かなければならない。これも中小機構の相談員が教えてくれました。専門用語もいっぱい出てくるので、いちいち説明しなければなりません。たとえば「冷間圧造」と書いたら、それが何かを説明しなければいけない。
 それから書類に使うフォントも指定されているので、フォントの間違い、誤字脱字など、すべてルールを守っていないとはじかれます。申請に行ったときに全部チェックされて、一つでも間違っていたら受け取ってくれません。
 
―― 良い技術だ、良い研究だということを分かってもらうためには?
松田 技術の裏づけとなる根拠とかデータを付けて、説得します。そのためには実験もやらなくちゃいけない。装置がなくても評価できる実験をして、そのデータを申請書に載せます。現状の課題がこうあって、この技術を使えばこうなる。現状ここまでできている。この研究がなければ、多分こうなってしまうと。根拠が弱かったり、説明が不十分だったら落とされてしまいます。
 
―― 事業化についても記載するそうですね。
松田 目的は事業化することなんですよ。税金を注ぎ込んで研究を委託する。その結果、事業として成り立って税金として戻ってくることが目的です。だから研究開発だけで終わりではなく、ビジネスに投入する入り口までをサポインでやらなければいけない。開発もできて、試作品を市場に流してみて評価も得て、これで販売したら喜ばれるというところまでです。
以前は研究が独自技術か、新規性の高いものかを評価したそうですが、民主党政権に変わってから事業化が審査の重点項目になりました。経産省の説明会でも審査方法が変わっているから、そこをしっかり書かないと通りませんと言われました。
今回の申請では、事業化の面で既に行っている取り組みも絡めて書きました。研究チームから派生したものですが、超硬工具を回収して溶かしてタングステンだけ取り出し、再利用するシステムです。今、回収センターを作って、いつも一定の、しかもスクラップより少し高い価格で回収しています。事業計画としては、この取り組みとも連携していることを記載しました。これも中小機構で言われたことです。関わりがあるのだから書いたほうがいいと。
 
 
事務処理は大変。でも連携できるメリットは大きい
 
―― ご苦労もあるのではないかと思いますが。
松田 サポインは研究開発にかかるすべての費用を請求できますが、その代わりすべてにエビデンスが必要なので、事務処理がかなり大変です。人件費も請求できますが、研究関連に費やした時間を全部記録しておかなければなりません。大学の先生や、研究専門の部署ならいいと思いますが、私たちのように日常の仕事もしながらだと、実質無理です。だから私たちは人件費の請求はあきらめようと思っています。
 経産省のサポイン関係の方に会うことがあると、いつも言っています。中小企業向けというけれど、制度がぜんぜん現場に合っていないと。本当は成果だけを評価してもらえるといいのですが、不正をする会社があるそうで、そのおかげで厳しくなっているようです。国の会計をチェックするような人が見るので、不正が見つからないはずがありませんよね。実際不正をした会社は、社名が公表されて、賠償請求もあるようです。
 
―― 進捗状況の検査もあるそうですね。
松田 サポインは単年度契約で、最長3年です。3月に会計監査が入ってOKなら費用が振り込まれ、次年度も契約できます。研究の進捗状況も検査があって、進んでいなかったら打ち切られる可能性もあります。専門家が並んでいるところで説明もします。
 1年目は、採択の発表がある8月ごろから、その年度の3月までを1年とするので、実質半年です。それで3年が終わるまでに、事業化できるところまで進めなければならない。採択が決まってから始めたのでは難しいです。普段から基礎研究をしていないと間に合いません。
 
―― ほかの補助金にも挑戦したそうですね。
松田 「レアアース・レアメタル使用量削減・利用部品代替支援事業」といって、費用の2分の1が助成されるものです。サポインと同じチームで挑戦して、こちらも通りました。サポインのほうのテーマは、減ったところに肉盛りしてもう1回使う方法ですが、こちらは異種金属の接合で、接合の仕方が今までになかった方法です。技術は異なりますが、狙いはどちらもレアメタルの使用量を抑えることです。
 正直なところ、サポインが通ると思わなかったので、こちらにも違うテーマで出してみたんですよ。2011年の12月に急に募集があって2月に採択されたので、サポインより先でした。
 
―― いろいろ大変なこともありますが、チャレンジするメリットは何ですか?
松田 私の場合は、ほかの企業や大学と、一つの研究の下に連携できることが一番です。実際負担も多いので、儲かることはありませんが、これで仕組みも何が大変かもよく分かったので、次のテーマがあればきっとまたやりますね。
サポインが終わったら、事業化のための補助金制度で「新連携」があるので、それも活用したいと考えています。新連携は書類だけの申請ではなくて、有識者に対してプレゼンもするそうです。今度は販売とか流通もチームに加えることになる。チームの意向を分かった上で売ってくれる人との連携は貴重ですよね。
 こういうネットワークはあとあと効いてくるのかなと思います。研究したテーマがビジネスとして成り立つなら、共同で会社を作ってもいい。そういうことも中小企業の新たに生きる道かなと。自社で技術を高度化することも大事ですが、それだけやっていても今のニーズには対応しきれない。連携すれば相乗効果でお互いに良くなっていくと思います。
実際、研究も進んでいるし、後の2年で予定通りの成果が出れば事業化に持っていけるという、手ごたえも少しずつ感じるようになっています。
 
 
金型をスタートしたのはリーマンショックから
 
―― 今回のテーマは「金型」ですが、なぜ金型を始めようと思ったのですか?
松田 私がもらってくる仕事はややこしいものが多いので、金型屋さんに頼むと、最終製品の要求精度を満たすような作り込みにならないと断られるんです。でもそういう仕事をやっていかないと仕事なんてない。私の頭の中にはこうしたらできるだろうというアイディアがあるわけだから、自分で金型を作るしかないと思ったのが始まりです。
 私は機械メーカーの技術部に6年9ヶ月修行に行っていました。そこで金型設計を仕込まれたので、自分でも設計できるのですが、当時社員5人ぐらいで工場を回していたので、金型の設計をする時間がなくて、金型屋さんにアイディアを伝えて作ってもらっていました。リスクは負わせないという約束で。でもノウハウが外に蓄積されているのはもったいないと思って、自社で取り組みたいと思いました。
弊社のような会社は、ピラミッドの底辺のようなもの。枠の中だけでモノを考えてできるなら、どこかがやっていて私のところに仕事なんてきません。枠からはみ出してやれるかどうかだけの話です。私の場合はポジションが経営者なので、失敗しても自分で後始末できる。だから思い切りも違うでしょう。
 
―― 金型はいつから作り始めたのですか。
松田 リーマンショックのころからです。それまでは、やろうと思っても日々の仕事をこなすのが精一杯でできませんでした。直接のビジネスに関係ない投資なので、10年計画ぐらいで少しずつ機械も入れ始めましたが、忙しいし、人を募集しても来ないし、ぜんぜん進みませんでした。
 ところがリーマンショックがあって、8割の仕事がなくなってしまった。初めて赤字になりました。工場の機械も全部止まっていて、5時になると誰もいなくなる。シーンとした事務所にぽつんと。でも仕事がないからと、じっとしていてもしょうがない。何か新しいこと、少しでも先につながることに、前向きに取り組んでいこうと思いました。
 へこんだのも事実ですが、仕事がなかったから始められたところもあります。今思えはラッキーだったのは、機械メーカーが在庫を抱えていたり、中古の機械が出回ったりして、機械を安くそろえられたこと。長期計画どころか、3ヶ月ぐらいで金型に必要な機械を全部そろえました。ほかの会社をリストラされた知人で金型をできる人がいたので、うちに来てもらいました。そこからスタートでした。
 
 
世界でここだけの「オリジナル商品」を作りたい
 
―― そのチャレンジ精神はどこからくるのでしょう?
松田 2000年ごろ、突然売り上げが半分になるという経験をしました。あるお客さんから「安いところから買うという調達方針に変わったので、海外製品を買います」と通達されました。どこも手を出さないような面倒な仕事を請け負うようになったのは、それからです。ピラミッドの底辺には、そういう仕事しか残っていなかったので、選べなかった。でも選り好みせずに仕事をしている間に、自然とマーケティングができたようなもので、ここに特化していくほうがいいかなと、だんだん多品種小ロットにシフトしていきました。
 売り上げの半分が突然なくなるという経験をしていたら、好調がずっと続くなんて思えない。要はそんな状態になるまで放っておかずに、もっと頭を使えということです。もともと私は自ら生産していたので、工場からほとんど出ない人でした。でもリーマンショックで、もっとアンテナをあちこちに張っていないといけないと気づきました。だからネットワーク、他企業との連携はとても重要だと思っています。
 
―― 今、何を目指しているのでしょう。
松田 弊社は赤字になったけれども、周りを見れば、赤字になっていない会社は山ほどある。どうして赤字になるのかと考えたら、基盤となるしっかりした技術がないから、外的環境の変化に振り回される。こんなのは経営といわない、経営者として最低だと思いました。環境の変化はチャンスとは思っていませんが、それに左右されるのがだめなんじゃないかと、私は思います。自社製品があって、それがここしか作っていなくて、世界中で一番良いものだったら、景気が悪くてもつぶれないでしょう。
 今は「オリジナル商品」を作りたいと思っています。オンリーワンか、世界でナンバーワン。こういう研究開発をしたり他社と連携をするのも、そこを目指しているからです。何かを固守するとかではなくて、トータルのビジネスとして会社が良くなったらいい。2割、3割でもいいから、自社商品をまず持つことから始めたいと思っています。
 2~3年前、海外に出ようと思って、アジアを回ったこともあります。どこかと連携してでも、海外に出るしかないと思っていたときに震災が起こりました。そこからまた考えが変わって、「メイドインジャパン」をやるべきだなと。海外から日本に買いに来て欲しいわけですよ。これはマツダにしかない、世界でここのが最高だということになれば、放っておいても来るでしょう。それで行列が出来て欲しいんです。
 「コマ大戦」のコマでもそうですけれど、あれも社員全員で取り組んでできたオリジナル製品です。コマで儲けようなんて思っていませんが、ただ自社で最終製品が作れて、それを販売して500円ででも売れたら、それはオリジナル商品じゃないですか。ネット販売などをやってみたら、それがまたマーケティングになって、違う相談が来るかもしれない。下請けの仕事はある程度確保できていて、いいお客さんにも恵まれてありがたいですが、自社商品でブランドとして売れるということを社員みんなが実感したら、また別の広がりを持って今までのお客さんにも提案できるかなと考えています。
 
 
 
余談:父のこと、私のこと
 
―― 「冷間圧造のパイオニア」だそうですね。
松田 創業当時は削るのがあたりまえでしたから、私の父が創業したころは、冷間圧造の走りのころでした。
父は、今の会長ですが、冷間圧造機を自作したんですよ。当時は欧米から伝わったものを修理することから始めて、日本でも作るところが少しずつでてきていました。父はサラリーマンで、ネジの機械に触れることがあって、冷間圧造機が革命を起こしていると思ったそうです。それで、その機械をスケッチしたり、スクラップを仕入れてきたりして作りました。ただ素人でしたし、作るのに2年かかったと言っています。作っている間に普及が始まっていて、そのせいで出遅れたらしいです。
それでも、機械は動いてネジを作ることができて、販売をちょっとはじめたんですよ。そうしたら機械メーカーさんにそういう情報が伝わって、そういうことやってもらったら困ると。父は、機械を売っているのではなくて、ナットを売っているのだからと説明したら、それならうちの機械を買ってくれという話になって、機械を買った...... そこから本格生産が出来るようになって本業スタートです。当時ネジは飛ぶように売れた時代ですから、これは商売としていけるというところから、自分で独立してナットを作ることに力をいれたんですね。昭和43年創業で、法人を設立したのが昭和49年です。
その機械メーカーの社長さんに大変お世話になりました。機械を買うにもお金がないので、大変骨を折っていただいたそうです。だからそこからは死ぬ気でがんばったと。
自作の機械は、新しい機械を買ってすぐに捨てたらしいです。今もあったら展示したかったのにね。
 
―― チャレンジ精神は、遺伝かもしれませんね。
松田 父は機械の自作だけじゃなくて、結構すごいことやっているんですよ。
たとえば、ナットを作ると真ん中を打ち抜いたくずが出る。それをもう一回機械に投入して小さなナット作って、それも売っているんです。今ならそういう発想もできますが、当時はそんな発想はまずありませんよね。自分らしいものをと、いつも考えていたようです。
当時は2人で工場を動かしていたので、機械を無人化運転させることにも取り組んでいました。金型が壊れたりすると不良品の山になってしまいますから、テレビカメラを工場の中のポイント、ポイントに仕込んで、小さな事務所にテレビを何台もならべて、集中管理みたいなことをやっていたんです。当時テレビカメラはとても高価だったらしいですが。
そういうアイディアマンなんですよね。
 
―― そういう父の姿は松田少年の目にどう映っていたのでしょう。
松田 作ったら売れる時代だったし、借金して機械を買っているから返さなきゃいけないし、すごく一生懸命に、家にも帰らずに工場に泊まりこんで作っていました。
だから、家に帰ってこなかったという記憶は思い切りありますよ。顔を見たことないですから。私は3人兄弟ですが、家では「お父さんはきっと悪い人なんだろうな」って話していたんですよ。帰ってきても夜中だし、寝ているときに帰ってきて、朝起きたらいないでしょ。何か悪いことしているのかな、泥棒か何かやっているのかなって。
子供のころ工場に行ったら、油まみれでコテコテでした。危ないから、子供は入れません。油が床にたまっているから、ツルツル。モノだけできればいいっていう感じですよ。父は長靴をはいて、強烈な環境の中で作っていました。油くさいのと床がぐちゃぐちゃだったのは覚えています。
 
―― どうして家業を継ごうと思ったのですか。
松田 僕は長男なので無理やり。ただそれだけです。小さいころからプラモデルとかが好きで、どちらかというと機械をいじったりするのが面白かったので、本当は車のメカニックにでもなろうかなと思っていました。
でも、私は長男だから強制的に。いやだ、いやだって散々言って、けんかして、最終的にはおまえみたいのは俺の子どもじゃない、勘当だと言われました。中学3年のころですね。普通は進路をどうするっていう話になりますよね。でも決め付けているから進路に関して家族の会話もない。学校の先生なら話を聞いてくれるから、助けを求めるわけですよ。先生が父に言ってくれましたけど、聞く耳を持ちません。先生に対しても、「は?なに?」って。その頃は、人生に嫌気がさしていましたね。中学、高校のときは、父と話もしませんでした。
 
―― 社長に就任したときは?
松田 突然言われました。「来月からお前だ」と。「え?」という感じです。70歳になったら代わると父は決めていたようでしたが、そんな予定は聞かされていませんでした。
 「マツダ」と社名変更したのも、そのときです。前は「マツダファスナー工業」でしたが、得意先もからも会社名が長いと言われていましたし。「マツダファスナー」で通っていたので「工業」だけ取るという話もありました。
 社長就任前は専務で、業態の変革をやっていたときだったので、意識的に変えていくという意味で「ファスナー」もはずしました。何しろ社長になれと言われたのが急だったし、それまで考えてもいませんでしたから、とにかく時間がありませんでした。私にセンスとか才覚があったら、別の社名になっていたかもしれませんね。
 
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わかりやすく、丁寧にお答えいただく松田社長
 
 
 
マツダ株式会社 ホームページ: http://www.matsuda-fastener.co.jp/pc/
株式会社大阪ケイオス ホームページ http://www.osakachaos.com/
 
<参考>
・ 平成24年度戦略的基盤技術高度化支援事業の採択結果
・ 平成24年度戦略的基盤技術高度化支援事業の公募について
・ 平成23年度「レアアース・レアメタル使用量削減・利用部品代替支援事業(一次公募)」の採択事業
 
 
 
(取材&記事 ワッツコンサルティング㈱ 杉本恭子)