ファスニング産業

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日本のねじと産業のあゆみ

西欧のねじ使用のはじまり

欧州でねじが盛んに使用され始めたのは産業革命の初期1800年代で、日本では幕末から輸入ねじが使用され近代化と工業化に大きく貢献しました。

 

日本のねじ製造のはじまり

手作りの工芸品的なねじは、16世紀半ばに種子島に渡来した銃の尾栓作りに始まり、19世紀半ばにはからくり儀右衛門がねじ切り装置を製作して、和時計の部品にねじが使用されています。

日本で工業的にねじが生産されるようになったのは、幕末に西欧列強の侵略から日本を防衛するために、製鉄所と造船所が建設され鉄船の建造や修理が始ってからのことでした。

 

一本のねじから日本の近代は始まった

若き日の幕府の重臣小栗上野介は、1860年に訪れたアメリカで目にした次々に機械で軍艦を建造するワシントンの造船所の姿に驚嘆しました。

小栗は、こうした近代的な工業施設を日本にも作りたいと考え、一本のねじを持ち帰ります。破綻に瀕した幕府財政のなかで、小栗は反対勢力を押し切り、改革を進めながら巨額の予算を要する横須賀造船所の建設を断行しました。

その造船所は、バルチック艦隊を撃破した勝利に貢献し、明治以降の日本の諸産業の礎となりました。

 

ねじの輸入と商社の興隆

生産設備や機械と同時にねじ部品も幕末から輸入されましたが、明治に入ると機械商や地金商が英国から大量のねじを輸入するようになりました。明治30年代には、当初からねじを専門に扱う商社が生まれ、大阪立売堀にねじの問屋街が出現したのでした。

 

工作機械によるねじづくり

市中民間では、大阪立売堀の「錺平」に次いで「鋲勝」が1884(明治17)年ころから手工製黄銅木ねじの、東京螺子製作所は明治37(1904)年にボルトナットの生産を開始し、「鋲定」が1921(明治45)年リベット製作に着手しました。

手工業方式によってねじの製造を開始したねじ製造者は、軍需をバックに真鍮銅製品から鉄製品へ、機械式製造へと次第に移行して、技術を向上し品種を拡大していったのです。

 

工業生産方式による国産化進展

本格的なねじの工業的製造は、官営八幡製鉄によって1906(明治)39年に設置されたボールト工場で行われています。維新政府の強引ともいえる急速な近代工業化を支え、重要な役割を演じたねじ国産化の歴史は、日本の下請け中小企業成長の歴史でもあるのです。

 

“産業の塩”ねじの貢献

ねじ業界は戦争によって深刻な打撃を受けたのですが、朝鮮動乱が救世主となり、業界のリーダー達による献身的な働きと結束によって、今も残るねじ産業の基盤が築かれました。

日本のものづくり中心の高度成長を支えたのは、“産業の塩”ねじでした。日本の高度成長とともにねじの技術高度化、規格標準化、新鋭設備導入が進み産業としての体制が整備されたのでした。

 

産業団体の役割

日本の産業団体は護送船団と揶揄された時代もありましたが、同業者の健全な競争と進歩促進の場でもありました。需要者と供給者、異業企業と同業企業、産業界と学界など相互に開かれた交流と連携が、企業間格差を防ぎ産業集団全体に発展をもたらします。

 

ねじの産業団体

ねじ産業の製造と流通の健全な連携を促進するために、昭和30(1955)年には、商業側の「全国鋲螺商業連合会」と工業側の6団体(後の「日本ねじ工業協会」)によって「ねじ商工連盟」が設立されました。

日本ねじ工業協会設立の趣旨は、前身の「全国ねじ工業連合会」会則第1条にある“業界地位の向上と産業界発展に資するを目的とする”というねじ業界の使命遂行と振興の理念を受け継いでいます。

世界はいま情報化とグローバル化が進んで事業環境が厳しくなり、いっそうの技術とサービスの高度化と経営の先進化が要求されています。

ねじ業界も旧体制からの脱却と、高度化先進化に相応しいファスニング産業として変革するために、未来開発プロジェクトに取り組んでいます。